19世紀、欧米では盛んに万国博覧会が開催されていました。エジソンやテスラなどの発明家が活躍したり、フォードが車の大量生産を始めた世紀末にかけては、ごぞんじのようにロンドン万博で水晶宮が、パリ万博でエッフェル塔が、シカゴ万博では大観覧車が生まれ、と各国が競いあって開催されていました。ちょうど日本が幕末の頃ですね。で、日本はといえば開国してからは、上野や京都で何度も開催され、1903年大阪で開催された時から初めて海外の参加が始まったそうです……前置きが長くなりましたね(笑)
そんな日本が近代化に燃えていた頃、1903年の万博が終わってから9年後、その跡地の一部にできたのが「新世界」。パリのように道路は放射状に伸び、中心に完成したのは凱旋門の上にエッフェル塔の上半分を組み合わせた初代通天閣。その南側、いまの串カツ店などが並ぶ飲食街の場所には、ニューヨークのコニーアイランドのルナパークを真似て、名称もそのまま「ルナパーク」とした遊園地、幸福の神様ビリケン像がアメリカから移植され、ふたつのエリアはイタリア製のロープウェイで結ばれて、まるでテーマパークのような街だったようです。
▲新世界とルナパーク(詳しくはこちら)
その後新世界には芝居小屋、映画館、噴泉浴場などができ、周辺にも動物園(1915)、飛田遊郭(1918)、大阪国技館(1919)など歓楽街は拡大。しかし、ルナパークは1923年に閉園。ターミナル駅として近くの阿倍野に百貨店などができ新世界は陳腐化。飛田遊郭と新世界をつないだジャンジャン横丁のさらに南西の釜ヶ崎では労働者の暴動があり(1961)、客足が遠のき、 70年代には荒んだ怖い街のイメージが定着していきました。しかし、新世界を舞台にした映画やドラマ、スパワールドやフェスティバルゲートなどの再開発、また昭和のレトロ感、浪速のこてこて感の再認識、また串カツ人気などで街に活気がもどり、道頓堀などと同じような集客力のあるエリアとなってきました。