野営車でいこう(VWT4版)

旧野営車エクスプローラ 2009〜2016年の記録

<span itemprop="headline">十年日記の中のあの日</span>


書棚から十年日記を見つけました。1992年から始めて1995年の夏まで、4年で挫折しましたが、その頃のことを思い起こすと、だんだん数日分をまとめて書くようになり、95年の春くらいからはインターバルが少しずつ長くなり、ついに力尽きてしまったというわけです(笑)

1995年といえば、我が野営車が生まれた年。そして、あの不幸なことがあった年。すぐにその日、20年前の今日、阪神淡路大震災の1月17日のページを開けてみました。

「火曜日 晴れ 朝6時前 強烈な地震で目が覚める。ランプのガラス等がわれる。アンディは恐怖でふるえている。交通機関がとまり会社行けず。被害の様子はどんどん拡がる。強烈な映像がTVから。水でない」

朝ベッドで強烈な揺れを感じて目が覚めました。かみさんも驚いて起きましたが、子供たちは寝たまま。家中を見てまわると、幸い揺れた方向に倒れる家具もなく、2階のリビングルームのランプが倒れてホヤが割れるくらいでした。しかしあまりにも強烈な揺れに外にいたビアデッドコリーのアンディを見ると激しく震えていたので、1階の寝室に入れて安心するようにさすりながら見守っていました。しばらくして再び強烈な二度目の余震が来ましたが、その間もずっとガタガタとアンディの震えは止まりませんでした。ミシミシと軋む音を聞きながら揺れている間、このまま家が崩れるのではという恐怖を感じながら、それはとても長く感じたのを覚えています。

翌日の日記を読むと、電車は一部の区間で復旧の目処が立たず、別の私鉄の駅までかみさんに車で送ってもらいなんとか出社したと書いてありました。しかし、阪神間はずたずたに寸断されていました。大阪の梅田駅の地下道には何事もなかったように普通に出社した人たちの間に、何らかの方法で大阪まで仕事や買い出しなどでたどり着いたリュック姿の被災者とが混在する不思議な光景がしばらく続きました。阪神間の人たちはホテルに宿泊して出社したり、会社を休んで地元で救助や復旧活動の支援する友人もいましたが、その状況は過酷なものでした。しかしその後の日記には仕事に謀殺される毎日が淡々と綴ってありました。あれから20年…また、今年からこの日記続けてみようかな。