野営車でいこう(VWT4版)

旧野営車エクスプローラ 2009〜2016年の記録

<span itemprop="headline">4日目~軍艦島</span>



 長崎旅行最終日は生憎の雨。目的地は軍艦島だが、雨の廃墟の姿もまたはいいかもしれないと思いながら、港の「軍艦島コンシェルジュ」の待合室で参考資料などに目を通して待つ。そこには、当時の炭鉱を中心にしたこの異常な島の成り立ちについてのいくつも研究本が置いてあった。ざっと目を通してみると、ここには書きにくいような過酷な現実があったことも知った。もっと読みたかったが、出航時間となり船は港を後にする。長崎港の対岸には造船所が並ぶ。その歴史は古く、徳川幕府が1857年に日本初の艦船の修理工場を作ったのがその始まりだそうだ。

 船は軍艦島に近づいてきた。船内からも見えるが、デッキのほうがよく見えるので雨が勢いを増してくる中、外に出た。島の周囲を回りながらガイドの方がいろいろと説明をしてくれる。軍艦型の長辺でも500メートルないからすぐに1周できる。1974年に無人島になってからもう四十年近く廃墟のままに晒されているその光景に圧倒される。こんな小さな島の半分が炭鉱、半分が居住区で実に5000人もの人が住み、火葬場と墓地以外のほとんどの街の機能があったらしい。しかし、炭鉱は地下600メートルというからスカイツリーくらい深く、湿度90%気温40度、しかも真っ暗で灯りはヘッドライトだけという劣悪の環境。住居も日本初の鉄筋アパートとはいえ、9階建てでエレベーターはなく、一般のアパートはトイレや風呂は共同で部屋は当然狭い。ガイドさんが廃墟のアパートに大きく空いた穴のことを説明してくれた。その穴にベルトコンベアが通され、掘り出されたものを岸壁の船に送り出していたらしい。木も生えていないコンクリートの島に異様なコンベアの音が響く…しかし、島の全ては炭鉱の会社が運営しているから電気や様々なサービスは無料。テレビの普及率はほぼ100%だったらしい。

 見学は島に一箇所ある船着き場から上陸した。建物は老朽化して危険なため、見学できるコースは限られていて柵から外には出られない。船着場から一部地下道を通るがその途中に分かれ道があった。その入り口は封鎖されていたが、それは居住地域へのショートカットだった。最近、軍艦島世界遺産にという動きがあるが、もしそうなれば、居住地域の一部の永久保存と地下道の整備をして欲しいものだ。

 軍艦島端島・はしま)で石炭が発見されたのは江戸時代(1810年)。はじめは小規模な採炭だったが、本格的に竪坑が完成したのは明治になってから。富国強兵のエネルギー政策の下、全国で炭鉱が掘られ日本の近代化を加速させた。そして1890年、この軍艦島もあのM社の手に渡り、島はその後、埋め立てられ拡大していく。そして出炭量のピークは1941年。しかし、70年代、日本のエネルギー政策は石炭から石油へと変わり閉山を迎える。そして2001年、百年続いたM社の時代が終わり無償譲渡された。

 長崎に来て初めて、この地においてM社の存在感が大きいのを感じた。それは長崎湾に広がる多くの造船工場。その最大のM社の造船所の歴史がそれが物語っていた。日本最初の幕府の艦船修理工場は、1884年にM社に委ねられた。岩崎弥太郎海援隊経理をしていたが、龍馬暗殺の後、大阪で海運業を始め、後に東京で初めてMという名前を冠した会社で本格的に事業を拡大していく。そして長崎のこの造船所がM社に渡ったその年の翌年、弥太郎は死去。そして弟の弥之助に引き継がれたM社は炭鉱の事業にも着手、そのひとつがこの軍艦島だった。そして、大きな財閥を築いていくわけだけれども、やはり長崎での出発点を考えると、それは龍馬の亀山社中であり、弥太郎も加わった海援隊であったと思う。長崎という当時唯一の外に開かれた窓を通じて、志士たちが掴んだ未来への糸が、その時代の勢いとともに現在の日本の礎を築いたといってもいいかもしれない。

 最後に少しエクスキューズ。この章での主役をわざわざイニシャルにしても意味がなかったかもしれませんが、最初に待合室で読んだ本でこの島が辿った悲惨な歴史を知ってしまったので、あえて伏せさせていただきました。ただ、今仕事のからみで1900年前後のシカゴのことを調べる機会があり、アメリカでもその時代に同じような風潮があった。人権擁護がまだ未発達だった時代、様々な発展の歴史の裏に隠されたダークサイドというのはどこにもあるものだと思う。長々とお付き合いありがとうございました。